千葉雅也のドゥルーズ論 ー フランシス・ベーコンの「歪曲する形象」

フランシス・ベーコンの絵画において、しばしば見られる、通常予測可能なイメージが座主すべき局所(顔・頭部等)が、あるべき描写からかけはなれた、ある輪郭に隔離された内部で著しい歪曲を来していることについて、ドゥルーズは「ダイアグラム」という表現を用いて下記のように論じている。

「例えば頭部、その一部は筆、箒、スポンジあるいは布切れで拭い去られる。それこそがベーコンがダイアグラムと呼ぶものである。それはあたかも頭部にサハラ砂漠か、サハラ砂漠のような地帯が突然導入されたかのようである」

フランシス・ベーコン<ジョルジュ・ダイヤーとルシアン・フロイト肖像画>1967年
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千葉雅也は、「輪郭を救うこと、文字通りになること ージル・ドゥルーズの美学と哲学における超越論的変形をめぐって」*1のなかで、「こうした<形象>への表面における回転と、行為としての回転が、幾何学的形態によって「隔離」された閉域において絡み合うーそこで起こっていることを、ドゥルーズは「動物への生成変化」と呼ぶことになる。」と云う。
ではドゥルーズの云う「動物への生成変化」とはどのような概念なのか。フランシス・ベーコンの絵画において、しばしば見られる、通常予測可能なイメージが座主すべき局所(顔・頭部等)が、あるべき描写からかけはなれた、ある輪郭に隔離された内部で著しい歪曲を来していることについて、千葉氏は「ダイアグラム」という表現を用いて下記のように論じている。

「動物への生成変化とは、そうした自然の中に休らうことではないのである。いわば反自然的環境世界の中に隔離されること、反自然的環境社会における歪曲する散歩、そのような自体がまさに顔面において起こるとき、ベーコンの<形象>はいったい誰に向かっているのか、それを問い進めるためにもう一度別の軌道へと逸れていこう。・・・」*2
「「ダイアグラム」とは、「動物への生成変化」という中間、つまり環境(milieu)を内側から乱調させる「別の世界の出現」である。」*3 

ダイアグラム、つまりベーコンの絵画の頭部の歪曲は、「マゾヒズム的に鞭うたれる」場所の出現となり、自然的な環境へのやすらいから遠く離れた中間地点となるという。

したがってドゥルーズの「中間地点」は、マゾヒズムの鞭にうたれる時に、快楽へと逃れては行かず、中間地点として鞭打たれる主体に認知された場所は、いまだ主体の快楽に結びつかない。
マゾヒズム的「法」を見いだしつつある主体に、快楽を差し出さず中間地点に直面させ続けるものを千葉氏は「フライデーの如きだれか」つまり全き他者であると云うが、いわばドゥルーズマゾヒズムの鞭の下に見せる永遠の中間状態の闇が、現代もドゥルーズを論じさせる力かもしれない。
 現代において「中間地点」は、決して消えないフライデーのごとき他者の存在により、生み出され確かめられるべきものなのである。ある認識の極致においてさえ、不確定な関係性へと逃れ去るべきものが他者・自己との関係である。千葉氏が「現在思想」*4において引用するマラブーの「可塑的な人間」という概念も、人間が同一的な自己との関係を持ち得ぬもので、過去の自分との連続性を可塑的に変容し得る不確定な存在であることを論じており、ドゥルーズにおける人間の不安定性と通じるものであると考えることは許されてよいのではないか。

表象〈02(2008)〉特集 ポストヒューマン

表象〈02(2008)〉特集 ポストヒューマン

*1:「表象」第2号 表象文化論学会・月曜社、pp. 264-280、2008年

*2:同上、pp. 271

*3:同上、pp. 278

*4:「彼岸のエコノミー—ドゥルーズマゾッホ紹介』再読:デリダマラブーフロイト解釈と比較しつつ」『現代思想』 第36巻15号、青土社、pp. 150-162、2008年